揚州ってどんな街?

上海在住の日本人にとって揚州は、それほど身近な街ではない。「揚州炒飯なら知っているけど」という人が少なくないだろう。しかし、揚州は上海から日帰りできるほど近い。揚州はどんな街なのだろうか。
 

揚州の街並み。市街地は高層ビルが少なく、落ち着いた街並みになっている。写真下の街路樹の間に「古運河」が見え隠れしている。写真左の大きな通りが文昌路(文昌中路)だ


不便な交通も徐々に解消
 
 揚州は江蘇省の中部、長江の北岸に位置している。揚州になじみが薄い1つの原因は、交通がそれほど便利でないことにある。上海の西に連なる蘇州、無錫、南京といった長江南岸の都市は、交通網が発達し急速な経済発展を続けている。それに対し、長江を隔てた揚州はその陰に隠れた存在だといえる。しかし、長江をまたぐ潤揚大橋が2004年に開通し、南の鎮江からのアクセスが格段によくなった。加えて近年の高速道路網の発達が、揚州の発展を促している。
 
大運河がもたらした繁栄
 
 揚州の歴史は春秋時代の紀元前486年にさかのぼるとされる。当時は「楊州」と称せられ、現在の市域よりはるかに広いエリアのことを指していた。
 この街の発展の契機となったのは大運河の開削だ。隋の第2代皇帝である煬帝がその立役者となった。中国の地図を見ればすぐわかるように、華北から華中にかけては黄河、淮水、長江という3つの大河が西から東に流れている。6世紀後半に隋が建国した当時は、3本の川を結ぶ水運の便が悪く、南北が分断されたような状態だった。隋の初代皇帝の楊堅(文帝)、それに続く煬帝は運河の開削に尽力した。そして、7世紀の初めに大運河が完成し、北の天津から南の杭州まで延びる長大な内陸航路が出現した。煬帝は大運河を通って揚州を度々訪れた。そのぜいたくざんまいの暮らしが隋の滅亡の一因とされた。618年、煬帝は揚州で殺害された。自ら建設した運河で行ったお気に入りの場所で殺されるという皮肉な結末だった。
 大運河の開通によって、揚州は物資の集散地となり大いに繁栄した。隋に続く唐の時代には、国際都市として名をはせ、多くの外国人が交易のために訪れた。元の時代には『東方見聞録』で知られるマルコ・ポーロもこの街に滞在している。明代以降は現在の江蘇省の東部で生産される塩の集散地として発展した。
 
日本とも縁の深い街
 
 揚州は上海をはじめとする長江南岸の都市と比べれば発展のテンポが緩やかで、落ち着いた街となっている。至る所に長い歴史を刻む名所がある。街の再開発も歴史を大切にしながら進められている。市街地の東部には古い街並みを改装した「東関街」が整備され、観光スポットの1つになっている。
 この街は日本とも縁が深い。遣唐使が経由した街で、真言宗の開祖である空海も、遣唐使として入唐した804年にこの街を訪れている。奈良時代に日本に渡った高僧・鑑真は、この街にある大明寺の住職だった。
 また、揚州は美食が豊富なことでも知られる。揚州炒飯は中国全土に広まった料理で、この街の名を高めている。淮揚料理はこの街と北の淮安の料理を指し、中国の四大料理の1つに数えられている。揚州はさまざまな楽しみ方ができる街だ。
 

揚州への行き方
まずは揚州の南の鎮江へ行く。虹橋駅から新幹線型の高速列車が出ている。専用の線路を走る列車は鎮江南駅、主に通常の線路を走る列車は鎮江駅に着く。バスの便を考えると鎮江駅のほうが便利だ。駅の南口近くにあるバスターミナルから揚州西バスターミナルへのバスが頻繁に出ている。
 


煬帝のレリーフ(揚州博物館の前庭に設置)。「暴君」と称せられたこの皇帝が揚州発展の功労者であることは間違いない
 

市の中心部に立つ「四望楼」。南宋時代に創建された建物だ。揚州が歴史遺産を大切にしていることの証しの1つだといえる