中国共産党と上海

「政治の中心地・北京、経済の中心地・上海」、これが躍進を続ける中国をけん引する2つの都市のイメージだ。しかし、中国の現在の執政党である「中国共産党」は経済の街・上海で誕生した。列強の進出の拠点となり「魔都」と呼ばれた戦前の上海が、中国共産党のゆりかごとなった。
 

魔都・上海の面影を現代に伝える外灘の伝統的建築群。混とんとした政情下で、新しい思想と組織が育まれた

列強の進出で労働者階級が増大
 
 中国が歴史の大きな岐路に立たされたのは、1840年に勃発したアヘン戦争だった。強大な軍事力を背景にして世界に植民地を広げていたイギリスとの戦争は、中国(当時は清が国を治めていた)の敗北に終わった。その戦争を終結させた南京条約によって上海は開港された。現代に続く上海の発展の歩みはこのときに始まる。
 アヘン戦争後の列強の中国進出は、中国の工業化を促した。それによって労働者階級が急速に増大し、中国での共産党誕生の下地が形成されていった。そうした状況下で、1917年のロシア革命で世界初の社会主義政権が樹立され、マルクス主義が中国にも波及してきた。
 上海は中国の共産党創立に向けた活動の中心地となった。列強の租界が広がっていた上海は、混とんとした政情下にあり、非合法とされていた共産主義活動を展開する隙があった。また、列強の帝国主義に抑圧されていた人たちが多く、社会の変革を求める声も日増しに高まっていた。
 
高まる共産党創立の気運
 
 中国での共産党誕生に大きな役割を果たした人物は、陳独秀と李大釗の2人だった。陳独秀は日本への留学や亡命を経て、1905年に上海で『青年雑誌』(のちの『新青年』)を創刊し、中国の思想をリードする存在となっていった。李大釗は日本留学中にマルクス主義に触れ、帰国後、北京で『晟鐘報』などの雑誌を発刊し啓蒙活動を続けていった。
 1920年の初め、陳独秀、李大釗らは中国での共産党創立の可能性を探り始めた。この年の4月にコミンテルン極東支局から派遣されたグリゴリー・ヴォイチンスキーが、北京で李大釗と、上海で陳独秀と会い、党創立の問題を協議した。陳独秀は李漢俊、李達らの同士に呼びかけ上海で共産党の発起組織を創立し、北京、湖南、湖北、山東、広東などでも同様の組織が立ち上がった。
 
3回の全国代表大会開催
 
 1921年6月、コミンテルンは中国にマーリン(オランダ人ヘンドリクス・スネーフリートの偽名)を派遣した。マーリンは全国代表大会を開いて中国の共産党を正式に創立するよう提案した。そして、7月23日、各省の代表者12人と留日の代表者1人、コミンテルンから派遣された2人の合わせて15人が上海に集まり、「第1回全国代表大会」が開かれた。大会は最終日に中国共産党綱領を定め、陳独秀を委員長とする党執行部を選出した。これにより中国共産党は正式に創立された。
 上海では翌年1922年の第2回全国代表大会と1924年の第4回全国代表大会が開かれている。その後、上海では1927年4月に「四一二反革命政変」が起きている。この事件では多くの中国共産党員が中国国民党軍に惨殺され、国民党と共産党の「第1次国共合作」は崩壊した。この事件は人民解放軍を設立する契機となった。上海は初期の中国共産党と切っても切れない関係にあるといっていい。