一大、波乱の中で党誕生

上海市の中心部にある「新天地」。おしゃれな観光スポットとして外国人にも人気の高い新天地の一角に「中国共産党第1回全国代表大会会址(以下、一大会址)」がある。1927年7月にここで記念すべき大会が開かれた。会議では予期せぬことが起こり、中国共産党は波乱の中での船出となった。
 

新天地にある一大会址。上海の伝統建築様式である石庫門建築となっている

15人が歴史的な会議に出席
 
 第1回全国代表大会(以下、一大)の開催を主導したのは「二李」と呼ばれた李漢俊と李達の2人だった。2人はともに日本への留学経験があり、留学中にマルクス主義に触れ帰国した。一大が開かれたのは、中華民国で要職を務めた李書城の家だった。李書城は李漢俊の兄で、弟の活動を黙認していた。
 一大は1921年7月23日に始まった。出席したのは上海、北京、広州、武漢、長沙、済南の代表者が2人ずつ、留日の代表者が1人、それにコミンテルンから派遣されたマーリンとニコリスキー(ロシア人ウラジーミル・ネイマンの偽名)の合わせて15人だった。のちに新中国建国の父と呼ばれる毛沢東も長沙の代表者として出席していた。中国共産党誕生の立役者である陳独秀は広州、李大釗は北京にいて、仕事の都合で出席できなかった。
 官憲の目を逃れるため、会議は夜開かれた。初めての会議が開かれたのは21日の午後8時すぎだった。15人が食堂のテーブルを囲んだ。テーブルの上には鮮やかな花瓶が置いてあった。その花瓶は数カ月前に李書城が結婚したときに置かれたものだった。会議では中国各地の方言や英語、ロシア語が飛び交い、かんかんがくがくと議論が戦わされた。会議は29日までに5回開かれた。
 
湖の上で党創立
 
 30日に事件が起きた。この日の夜、6回目の会議が始まるとすぐに1人の見知らぬ男が入ってきた。この男は場所を間違えたと言って早々に退散したが、マーリンは「密偵だ。すぐに会議を中止して逃げるんだ」と訴えた。出席者は李漢俊と広州代表の陳公博の2人を残して家を出た。残った2人が2階の書斎に上がると、すぐにフランス人警察官ら数人が乗り込んできた。警察官は2人に事情を聞き、室内を捜索した。2人の応対が適切であったことと室内に不審な物がなかったことで、警察官らは取り締まりをすることなく帰っていった。マーリンの機転が、中国共産党創立直前の危機を救った。
 警察の捜索のあと、その後の対応を協議し、李達の妻の発案で場所を浙江省嘉興の南湖に移すことになった。一行は翌31日の朝、上海を出て昼前に南湖に着き、1隻の遊覧船に乗って会議を継続した。そして「我々の党を中国共産党と命名する」などとする党の綱領と陳独秀を委員長とする執行部の人事を決めて、党の創立を宣言した。
 
観光名所の1つとなった一大大址
 
 一大会址は新天地の再開発に合わせて改装された。記念館が設置され、多くの展示物が並んでいる。会址はその一角のわずかなスペースに保存されており、会議が開かれた部屋には当時を再現した家具も置かれている。新天地という人気の観光地にある中国共産党発祥の地ということで、大勢の観光客が訪れている。
 一大出席者の中で生涯名誉を保ち続けたのは、毛沢東と武漢代表だった董必武の2人だけだとされる。二李のうち李漢俊は1927年に捕えられて刑死し、李達は文化大革命で批判され1966年に非業の死を遂げた。一大出席者のその後の生きざまは中国、そして中国共産党の激動の歴史を物語っている。

一大会址への行き方
地下鉄1号線の黄陂南路駅から黄陂南路を南に約400メートル行く。地下鉄10、13号線の新天地駅からも距離はほぼ同じ。黄陂南路と興業路の交差点の北西の角に一大会址がある。入場無料だが身分証明書の提示を求められるので、パスポートを持参しなければならない。
 
 
会議が開かれた部屋。テーブルの上には当時と同じように鮮やかな花瓶が置かれている


2階に通じる階段。フランス人の警察官らがここを上って捜索に乗り込んだ


記念館では模型を使って当時の会議の様子が再現されている
 

一大に出席した各地の代表者の写真や経歴も展示されている
 

嘉興市の南湖。中国共産党創立の地で、今もこの地で最も人気の高い観光地になっている