この人、この上海 金井三郎さん

中国で30年、日本料理の伝道師
 
経済発展が続く中国。国民の生活も豊かになり、外国の料理を食べることも珍しいことではなくなった。上海では日本料理の店も数え切れないほど開店している。しかし、この状況に至るまでには長い道のりがあった。料理人の金井三郎さんは中国で働き始めて約30年、中国の変化を知る数少ない日本人の1人だ。金井さんは日本料理を中国の人たちに伝えようと、今も精力的に活動している。
 
 
金井三郎さん
 

ピンチヒッターで始まった修業
 
 金井三郎さんは1949年、東京の下町・深川に生まれた。高校卒業と同時に料理人としての歩みを始めた。最初の修業の場は京都の老舗茶寮だった。この道に進んだのには意外な経緯があった。金井さんは「私の高校の同級生が、そこで働くことになっていました。しかし、その同級生は料理人になるのが嫌で、私に『すぐに自分が行くから、それまでの代わりとして行ってくれ』と言いました。私はピンチヒッターのつもりで、京都に行きました。しかし、待てど暮らせど同級生は来ず、結局、私がそこで修業を続けることになったのです」と語る。茶寮での仕事は5年半に及んだ。
 東京に帰った金井さんは、大規模な宴会場に勤めることになった。「茶寮は予約制で事前の準備をきちんとしてから調理に取りかかります。料理もある程度決まっています。しかし、宴会場は予約なしのお客さんもあり、料理の数も多い。料理人で仕事を取り合うという面もあります。茶寮とはまったく違う体験をしました」と当時を振り返る。その後、金井さんは東京の一流ホテルの日本料理店で料理長を務め、多くの料理人を束ねるという経験も積んだ。
 
プロジェクトの現場で調理を担当
 
 日本で料理人としての修業を積んだ金井さんは、1980年代の半ばに中国で働き始めた。生活の拠点は、奥さんのふるさとである上海だった。当時は中国と日本を自由に行き来できる状況ではなく、中国で日本料理を食べることは不可能に近かった。当初の仕事は中国と日本が共同で進める大規模プロジェクトの現場で、そこで働く日本人のための料理を作ることだった。「コメや野菜などの食材、塩、しょうゆといった調味料は、プロジェクトに必要な資材として日本から輸入されていました。当時の中国の食材や調味料で日本料理を作ることは難しく、日本のものに頼らざるを得ませんでした」と当時の状況を話す。こうしたプロジェクトでの料理人の仕事は10年近く続いた。
 改革開放政策が軌道に乗った1990年代半ば、金井さんは上海で料理人として働き始めた。上海では日本料理店が次々に開店し、金井さんの活動の範囲も広がった。
 
日本料理で日本の心を伝えたい
 
 金井さんが力を入れているのは、中国での日本料理の普及だ。上海の中華職業学校との関係は20年近くになる。この学校は1820年に開校した名門の職業学校で、中国料理や西洋料理の料理人を数多く輩出している。金井さんは刺身やすしを中心とする日本料理の勉強会を不定期で開いている。8月13日と14日に開かれた中国技能大会での中華職業学校のブースにも金井さんの姿があった。
 また、一般の人を対象とする日本料理の教室も開催している。そこでは伝統的な日本料理だけでなく、和菓子やケーキの作り方も教える。金井さんの日本での修業が中国で生かされている。「実際に家で料理をする奥さんだけでなく、小さい子どもも来ます。みんな素直で私の教えたことをすぐに吸収してくれます。日本の食卓にラーメンやギョーザといった中国ゆかりの料理が並ぶように、中国の食卓に日本の料理が並べばと思っています。料理を通じて日本を身近に感じ、日本の心を知ってもらいたいというのが私の願いです」、金井さんは思いを語る。
 金井さんは60代後半となったが、その活動は年齢を感じさせないほど精力的だ。料理を教えてほしいというリクエストがあれば、中国のどこにでも飛んでいく。上海では静安寺、外灘という街の看板エリアで新しい店を開く計画が進んでいる。懐石料理の教室を開くという構想もある。中国で30年、日本料理で日本の心を伝え続けてきた金井さんの情熱は衰えを見せない。
 
上海市飲食調理業協会
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